スイス山里COSMOSNOMADO

アルプスの山を眺め空を見上げながら心に映る風景を綴ります

過去を知ることで未来に活かす知恵

いつだったか日瑞両方の血を引く若者と話した時の彼の言葉が頭に残っている。たぶん、最初のコロナ禍のロックダウンの頃だったかもしれない。シニアの外出自粛のことが糸口で、「老人」についての話題になったような気がする。

「自分は、老人は大事だと思う。だって、僕たちの知らない昔のことを経験しているわけだから。なんていう言葉だったかな、ほら、宮崎駿のアニメにも出てきたけど、集落の物知りの老人を指す言葉があるでしょ?」と彼が言った。「ああ、長老?」「そうそう、それ」と彼は頷いた。そして、「年取ってる人が亡くなるってことは、その人の経験そのものも無くなってしまうことでしょ。だから、生きているうちにそれを若い人たちに伝えてほしいと思うんだ。僕たち若い者が学べることがあるはずだもの」と言う。なるほど、年を重ねたからといって賢くなるばかりでもないが、たしかに、昔の長老と呼ばれた人たちは、知識と経験からくる知恵があった。

今の世の中は、情報に関してはかなりインターネットに依存しているから、その点ではかえって若い人の方が、情報量が多かったりするかもしれない。けれども、それを判断するためには、今までに得た知識や経験がものをいう場合もあるだろう。長老とまではいかずとも、高齢になればそれだけ時間的には経験を積んでいるわけだ。「先生」という言葉がある。それは、相手に対する敬いの表現である。「先に生まれた」と書く。一般に、先生という言葉は、自分が教えを請う人に使われる。つまり、ある事柄について自分より知識のある人だ。時間的に言えば、先に生まれた人は、若い人たちが生まれる前のことに立ち会っているわけで、歴史?を体験している。ということは、その経験を伝えることによって、これからの人が学べることもあるはずだろう。であれば、先に生まれた人が後から生まれた人に、やがては歴史になる出来事の体験や、その時代に生きた経験を語っていくのは大事なことなのだと思う。

歴史研究者は、残された史料から事実を積み上げて時代を検証していく。ノンフィクション作家も、史料や証言をたどってその時代に生きた人物を描いていく。歴史は繰り返すと言われるが、過去にあったことを知ることが、今起きている事柄やこれからのことを考える役に立つ。そういう意味で史料を残すということは大切なことだ。最近の日本では、政府関係の会議で議事録が取られていなかったり、公文書の改ざんが行われたりしていたという。官僚や政治家の記憶もごく短期間で消えてしまうらしい。ちょっと考えられないことだが。

日本では、政治家にも「先生」という呼称が使われる。だが、今の政治家に本当にそれに値する人がどのくらいいるのかは、大いに疑問だ。我々の親世代の政治家たちは、たいてい若い時に戦争体験をしているから、自分ごととしてその悲惨さを知っていた。だからこそ、全体の方向性としては、平和で国民生活が豊かな国の建設を考えていたと思う。そういう意味では、過去に学んだ人たちで、なかには「先生」にふさわしい人物もいたことだろう。でも、もうほとんどはすでに鬼籍に入ってしまった。後輩に十分に経験を伝え知恵を授けてから彼岸に渡ってくれただろうか。

それにしても、公文書改ざんの話などを聞くと、なんだかジョージ・オーウェルの「1984年」という小説のことが頭に浮んでしまう。近未来の仮想の国が描かれているのだが、そこの国民は四六時中ビデオカメラで監視されていて、ビックブラザーという顔の見えない独裁者に支配され、人々には思想言論の自由などない。また、真理省という役所があって、そこでは支配者に都合のいいように、現在の状況に合わせて日々歴史の記録が改ざんされている。だから、過去に何があったのかは、本当のところは、もう後の人には誰にもわからない。ジョージ・オーウェルはそんな世界を描いた。過去の記憶がきちんと事実として形に残っていない社会の行く末を考えるとおそろしい。人の記憶は当てにならないから、文書で記録を残しておくことが大事なのだ。

私の子供の頃の大人たち、作家や執筆家、評論家として活躍していた方々何人かを思い浮かべる。あの方たちが生きていて、今の日本社会の状況を見たら何と言うのだろうか。ふと、フランス文学者で、ラブレーやエラスムスの研究で知られる渡辺一夫氏の名前が浮かんだ。氏を先生と仰いだお弟子さんたちの何人がまだご健在だろうか。大江健三郎さんがチューリッヒで初めて講演をされたのは、2000年1月のことだった。定員600人の会場に650人の聴衆が詰めかけて、コンサートホールの舞台の後ろも人で埋まった。講演の中で渡辺一夫とエラスムスに触れておられたのが印象に残っている。精神の自由が奪われ、主流とは違う考え方への不寛容が蔓延する時代には、エラスムスが語られる。シュテファン・ツヴァイクの「エラスムスの勝利と悲劇」が書かれた時代もそうだった。大江氏の「治療塔惑星」などは予見的な作品だと思う。ドイツ語訳も出ている。この方は、常に社会と関わりながら発言と行動をしてきた作家だ。今は80代の半ばになられていると思うが、お元気でいらっしゃるだろうか。

さて、最初の話に戻るが、あの若者の言葉には意を強くした。歴史家やノンフィクション作家ではなくとも、著名人ではなくとも、年を重ねた市井の人間が、書くなり語るなりして経験したことを伝えていくのは、やっぱり意味のあることなのだろうと。私自身も、亡くなった両親からもっともっといろいろな体験を聞いておきたかったなあと思っているこのごろである。

 

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