スイス山里COSMOSNOMADO

アルプスの山を眺め空を見上げながら心に映る風景を綴ります

平野啓一郎「本心」を読んで

平野啓一郎氏の最新作「本心」を読み終わった。氏の作品を読むのは、これが6冊目になる。最初に手に取ったのは、「マチネの終わりに」だった。そして、平野氏が23歳の時に芥川賞を取ったことを知って、その受賞作「日蝕」を読んでみた。「一月物語」も同じ本に入っていたので、その作品も同時に読んだ。次に「ある男」に行って、それから「葬送」へと進む。そして、今回の「本心」だ。作品を時系列で見れば、バラバラな読み方をしている。実は「葬送」は、氏が27歳の時に書かれたもので、およそ20年前の作品になるのだ。「マチネの終わりに」や「ある男」は、ここ数年の小説になる。「葬送」の重厚さと話の長さは、19世紀の小説を思い起こさせた。一方、最近の小説は、現代社会が持つテーマを扱っている。時期的にその間にある「決壊」や「ドーン」はまだ読んでいないので、これからだ。

さて、「本心」は幾つかの点で印象深い。まず、今の社会が抱える問題をまっすぐに見据えながら、同時に、時代を超えて人間が持つ「人の生死」についての永遠の哲学的な問いを投げかけている。それを統合的に描く作者の手法が見事だ。

物語の舞台は、今からおよそ20年後の日本。社会にはますます貧富の差が広がり、完全な格差社会になっている。語り手の「僕」朔也は、29歳。生まれた時から母と二人っきりの家庭で育つ。後の伏線となる事件によって高校を中退し、職業を転々としたあと、現在は「リアル・アバター」という仕事に就いている。物語は、その朔也が、70歳を目前にしていた最愛の母を事故で亡くし、その深い喪失感から、母親のヴァーチャルフィギュアの作成を専門の会社に依頼に行くところから始まる。朔也には、どうしても知りたいことがあった。偶然の事故で亡くなった母親だが、実は、彼女は生前「自由死」を望んでいて、それが朔也にはどうしても納得できず、反対していたのだ。そして、母は息子の承諾を得られないまま、結果的には事故死してしまった。20年後の日本では、「自由死」と呼ばれる自死が社会的に認められるようになっていた。朔也は、なぜ母が「自由死」を望んでいたのか、その本心が知りたかった。母の「もう十分だから」という言葉の真意を。本当に母は自身の人生に満足して、十分と思ったのか、あるいは、いずれ介護が必要になることによって、自分に迷惑をかけたくなかったからなのか。二人とも経済的には、何とかギリギリ働いているからこそやっていける生活だった。生前のデータを元に出来上がったVFは、とてもよく母に似ていたが、これから学習することによって、ますます実際の母親に近づいていくのだという。朔也は、「母」を母らしくするために、今まで彼女と交流のあった人たちに連絡を取っていく。母の「本心」を探求する旅が始まる。母と一緒に旅館で働いていて、やがて母の友人となった朔也より少し年上の三好彩花、「自由死」の相談をしていた主治医、若い時に交流のあった作家の藤原亮治。三好とは、災害で彼女が住まいを失ったことにより、空いている母の部屋を貸してシェアハウスメートの関係が始まる。VFの「母」は、親しい友人だった三好との会話によって、ますます本物に近づいていく。やがて三好は朔也の心に大きな位置を占めていくようになる。20年後の日本は、はっきりと二つの世界に分かれていた。持てる者と持たざる者、成功して余裕のある生活ができる者と、ギリギリの生活をしている者。勝ち組と負け組。三好は、それを「あっちの世界」「こっちの世界」と呼ぶ。三好も朔也も、経済的にギリギリの「こっちの世界」の人間だ。三好は「あっちの世界」に憧れをもっている。社会を変えることではなく、自分が「あっちの世界」に行くことによって幸せになろうとする。苛酷な過去を持つ三好は、自分は選挙にも行っている、でも、社会は変わらない、これ以上どうしろって言うのと呟く。同じ「こっちの世界」にいる人間として、もう一人、朔也が勤めるリアル・アバター会社の同僚が登場する。彼も三好と同じく恵まれない人間だが、その鬱屈を極端な手段で晴らそうとする。物語の中盤から、イフィーと呼ばれる「あっちの世界」の青年が登場する。子供の時の交通事故で、下半身に障害を持つ車椅子の若者だが、魅力的なアバターを創作する優れた才能で巨万の富を築いている。朔也は、自分の本心からの意図とは違った解釈をされて、インターネットで広められた「英雄的な行動」によって、この青年と知り合う。そして、この出会いは、朔也と三好の未来を変えていくことになる。また、最後まで「自由死」についての母親の本心は明らかにされないが、藤原と会って、朔也は自分の出生の秘密と、今まで知らなかった母の人生を知る。最終章で語られる「最愛の人の他者性」に直面するのだ。やがて、朔也が三好とも同僚とも違うやり方で、この分断された世界に向き合い、救いのある社会へと行動を始めようとする暗示で物語は終わる。豊富な語彙で表現される内面描写と個々人の詳しい関係性は省いたが、話の流れとしてはこんな感じだ。

この小説には、人間が持つ生死についての根本的な哲学的な問いと、今を生きる社会的視点が融合されている。自分を愛し、気にかけてくれる人のいない世界に価値があるのか。朔也は、母のいない世界で正しく生きることの意味を見出せなくなる。ある日、同居している三好が、自分が嵌っている「縁起」というVRのアプリを貸してくれる。それは、宇宙の始まりから未来までをも体験できる壮大なVRだった。そのヴァーチャルな宇宙空間をたゆたいながら、朔也は自分が宇宙そのものと一体化している感覚を持つ。宇宙を構成している一元素として彷徨い、いつしか太陽系の地球大気圏に突入。目眩く地球上の生命の盛衰。大宇宙の中の塵のような太陽系の中にある地球の上で、朔也という人間として存在した痕跡はちっぽけすぎて見えない。それは、何百億年のスケールの中のほんの瞬きほどの時間だった。やがて、太陽も地球も消滅して、ほんの束の間に朔也であったであろう元素は更に宇宙をたゆたう。母を構成していたであろう元素と、いつしかこの無限の宇宙で再び出会うことはあるのだろうか。「縁起」の体験は、朔也にある感覚、深い諦念というか、悟りとも呼べる感覚をもたらしたのではないか。けれども、だからこの生などちっぽけなものだ、となるのではなく、一瞬の煌めきだからこそ愛おしいという思い。人間としての肉体が消滅しても宇宙の元素として存在し続けるという実感。だが、宇宙時間の中の何百億万の1秒にも満たない瞬きであっても、人類の一員としての朔也は、人間時間の中で、今ここに生きているのだ。小説は、それを強く感じさせる。2040年のその社会は、貧富の差が歪に広がった社会。母は三好に、息子は優しい子だと語っていた。ここも、この小説の大事なところだと思う。朔也の、他者に寄り添わずにはいられないこの「優しさ」こそが、結局は強さにつながり、真っ当な社会を取り戻す鍵となるのかもしれない。朔也がコンビニで身体を張って、非暴力で外国人の店員を守ろうとした行為は、彼の知らないところで「英雄的な行動」としてユーテューブ上に広がった。それが、イフィーと知り合うきっかけにもなったし、心寄せる三好を「あっちの世界」に橋渡しして幸せを与えることにもなった。しかし、自分の本心が違うところにあったことを彼は知っている。本心と違う解釈をされていることに疚しさを抱きながらも、逆に、朔也はその「英雄的な行動」にふさわしい人間になろうとする。人の本心は様々に揺れ動く。朔也の母にせよ、もし社会的条件が違えば、「自由死」を望まなかったかもしれない。本当に十分生きたという思いだったのかは、最後までわからない。朔也の決意も、「本心」、本当の心からではなかった行為をきっかけに、やがては、心からそう行動したいという気持ちに変わっていく。人の心は不思議な力を持っていると思う。

じっくり読ませる作品だ。ストーリーとしても面白いし、作者の登場人物の設定も興味深い。読み手を時々立ち止まらせ、様々な思いを呼び起こさせる。そのうちの一つ。ふと、遠い昔の中学生の頃に新聞のコラム欄で読んだ文章が蘇った。その中で、ある思想家の言葉が引用されていた。一語一句はもう覚えていないが、内容はこんな感じだったと思う。人類も地球もいつかは滅びるけれど、我々は人類が永遠に生き続けるかのように振舞わなければならない。つまり、我々が孫子の世代、またそのずっと先の世代まで続くと思えば、自ずと明日を思い、今日を手入れする社会を作っていく姿勢になることだろう。未来から逆算して、今取るべき行動を考えるのではないだろうか。たとえ、本当は「滅びゆく存在」であろうとも。

 

f:id:cosmosnomado:20210701180837j:plain

野の花