スイス山里COSMOSNOMADO

アルプスの山を眺め空を見上げながら心に映る風景を綴ります

選挙たけなわの時期に思うこと

チューリッヒのスイス民俗衣装祭

今、ヨーロッパでは選挙が目白押しである。イギリスでは、労働党が圧勝した。これからフランスでも選挙。マリーヌ・ル・ペン率いる極右政党が伸びそうだ。マクロンさんの誤算?何しろ今の党首は28歳のジョルダン・バルデラで、若いことと一見爽やかな印象が人気を呼びそうな気配。現在ヨーロッパでは振り子がだいぶ右に振れている。今までへの揺り戻しなのだろう。振り子は大きく振らせれば右に左にと大きく揺れるもの。でも、と思う。そもそも静かに垂らしてはおけないものなのか。もちろん、それでも振り子というものは振れるのが自然だ。けれども、その振れ幅は大きくない。政治において、極端というのが一番怖い。熱狂が悲劇を生むというのは、かつてのドイツを見ても明らかだろう。冷静な目で見れば、台頭してきた頃のあのヒトラーの演説の姿は異様である。叫んで叫んで聴衆を煽る。敵を作って拳を振り上げ攻撃する。それを見て熱に浮かされたように支持の声を挙げる人たち。熱狂ほど怖いものはない。政治においては尚更だ。熱狂している人間には他者が見えない。熱に駆られて違う考えの者を排斥し出す。ヒトラーは選挙で選ばれて政権を掌握した後、全権委任法をもって独裁者になった。独裁者は話し合いをしない。他者の意見に耳を貸さない。何を言ってもダメなのだ。ヒトラーの歩みを見ると、暴力と切り離せない。反対するものは力でねじ伏せていく。人間の肉体は脆い。いかに言論の力で立ち向かっても暴力を使われたら終わりだ。人類は腕力ではなく知力で戦う知恵というか術を身につけてきた。皆が皆ではないが、未熟な子供はすぐに手を出す。動物的本能なのかも知れない。けれども躾と教育の中で他者との対話を学んでいくわけだ。人間は社会的動物。人の話を聞くこと。そして考えること。もし意見が違えば議論をして擦り合わせをしていくこと。けれど今、世の中を見ていると何だか危うさが漂っている。右だ左だと短絡的にレッテルを貼って分断したがる。我々は社会の中で生きているのだ。いやでも共生していかなければならない。これだけ人間がいれば考え方も様々だろう。大事なのは、意見が違っても人権を尊重する社会であること。昔子供の頃、相手のことを考えなさいとか思いやりを持ちなさいとか習った。それを教えるのが躾と教育。

選挙といえば、日本では東京都知事選がたけなわである。都民の関心はどうなのだろう。テレビなどの報道が少ないと聞く。しかし、政治と生活は密接に結びついているのだから、関心を持って当然のはずなのだが。日本人は、政治の話を避ける人が多いようだ。スイスにいると、政治は生活であるというのがまずは大前提。しょっちゅう国民投票がある国だし。都民の皆さんには、ぜひとも適切な人を選んでいただきたい。討論会を避けてマスコミを使った宣伝に集中するアンフェアな現知事は論外だ。実績を誇るなら堂々と討論会で挑戦を受けて立てばいいのに。対する有力な挑戦者は二人のようだ。敵を作って煽る劇場型の候補者には何だか既視感がある。あまりにも強い自信とそこから来る無意識の優越感は政治家としては危うい姿勢だと思う。弱い人に手を差し伸べるのも政治の役割。私がもし都民だったら、今回はボトムアップの政治を掲げて影に光を当てると言ってくれている候補者を選ぶだろう。

いずれにせよ、この人間社会が機能していくためには、社会の一員としての一人一人の自覚と責任感が不可欠なことだ。そして、それを子供達に教え伝えていくのが教育だと思う。