スイス山里COSMOSNOMADO

アルプスの山を眺め空を見上げながら心に映る風景を綴ります

夫の母は断捨離のお手本

今週のお題「捨てたい物」

チューリッヒ湖

捨てたい物はいろいろあるが、それでも捨てられない物がある。世に断捨離は大流行りらしく、たしかにいらない物を捨てれば生活がスッキリするし、心軽く生きていかれるだろう。また、人はいつかはいなくなるので、物を残さずに逝きたいという思いはある。

その点のお手本は義母だった。義母は義父が介護ホームに入るときに、併設されている老人用アパートに引っ越した。その時84歳。まだとても元気で、まず必要のないものは自分で全て整理。残された小さな家は、夫と私が管理することになった。アパートには小さな台所があったので、食器類と布巾などの台所用品は必要になる。もう特に凝った料理をすることもないというので、残したものは必要最低限の鍋や食器類だけ。布巾も何枚かだけ残してあとは処分していた。その後義父が亡くなり、元気だったがちょうど空きが出たので併設の老人ホームに移った。先を見越しての決断だった。手伝いに行ったが、普段から整理している人なので、引っ越しは簡単に終了。食事は老人ホームの食堂でするので、残したものは数枚のお皿とコーヒーカップのみ。洋服も然りだ。老人ホームで10年過ごし、介護ホームに移った一週間後にお茶の席でコトリと息を引き取った。彼女を見ていると、本当にこういう人を清貧の人と言うのだと思う。残した家の管理もあったので毎週のように訪ねたが、心待ちにはしていたようだ。けれども、多くは求めず実にさっぱりとした人だった。亡くなる前日、静かに眠っている義母に、そっと「それじゃお母さん、また明日来ますからね」と声を掛けると、寝返って私たち家族一人一人に手を差し出して「おやすみ」と言った。まるで最後のお別れのように。翌日訪ねる途中でホームから義母が亡くなったという電話が入った。私たちが到着する30分ほど前だった。安らかな最期だったという。

そんな義母を見ているから、普段からいらないものはどんどん捨てなければとは思うのだが、やはりなかなか難しい。あれだけ断捨離していた義母でさえ、亡くなった後小さな家に残った物の整理はあった。人間の一生は物と共にある。私はほとんど新しい物は買わない人間なのだが、それでも年を重ねていると物は溜まる。今まで書き溜めたノートは何十冊にものぼるし、思い出の写真や手紙もあるし、思い出系はなかなか捨て難い。けれども、考えてみれば私にとっては大事な物でも、残された人にはそうではない。有名人などは、遺品がオークションにかけれらることもあるけれど、市井の人間には縁遠いことだ。自分が死んだつもりになって、故人の遺品整理をする気になれば、たぶん思い切り捨てられるのだろうが、なかなか難しい。たぶんまだまだ生きるつもりでいるのだろう。とは言え、人間一瞬先のことはわからない。ただ、勘としてはもう少し此処にいるような気はしている。